趣味なのか、壁の額縁や置物には、詩だか格言だか書かれたものがやたらと多い。しかもいろんな言語で。それを眺めているうち、ふと思いついてクレに訊ねる。
「あのさ、リカバリーフレーズって、この中に隠されているってことはないか?」
「え?」
「十二個の単語だろ? こういう詩とか、もしくは本のタイトルとかから少しずつ引用すれば、物理メディアに保管しておく必要はないし、順番さえ忘れなければいい」
「いや、ないから」
クレは少し呆れたように言う。
「パスワードとは違うんだよ? フレーズから乱数を作るんじゃなくて、乱数からフレーズを作るの。初期乱数は疑似乱数生成器で作られるから、リカバリーフレーズは自分では決められないんだよ。チェックサムがあるから適当に選んでもたいてい無効になるし」
「う、そうか……」
ミステリの読み過ぎみたいでなんだか恥ずかしかった。誤魔化すようにワードインデックスの一覧を自分のスマホで開いて眺める。部屋の中にところどころ合致する単語はあるものの、だからなんだという感じだった。というか2048もあるんだから当たり前だ。
僕は、実はけっこう前から出ていた結論をクレに告げる。
「無理」
「え?」
「無理に決まってるだろこんなの」
僕は続ける。
「あのなぁ、どこにあるかもわからないデータをどうやって盗めって言うんだよ」
「ええ、でも、藤井さんソーシャルエンジニアリングで……」
「ソーシャルエンジニアリングをなんだと思ってるんだ。データの在処は一人しか知らない、しかもそれが呉槭樹って……一級のエンジニアだぞ。専門ではないだろうけど、サイバーセキュリティにだって明るくないわけがない。相手にできるかよ。それとも、他に秘密鍵を知る人間がいるのか?」
「それは……」
クレが口ごもる。
僕は、仕方なしに続ける。
「自分でやってくれ」
「でもっ」
「手伝うくらいならできる」
「え……?」
どのみち、協力せざるを得ない状況に変わりはない。
「本人しか知らないなら本人に教えてもらえばいい。ちょうどデバイスは初期化されてるんだし。マルウェアくらい用意できるよな」
「ハードウェアウォレットを返して、お母さんが入力したフレーズを盗み見ようってこと……? む、無理だよ」
クレは自信なさげに言う。
「誰かに渡ったデバイスの中身なんて一番警戒されるよ。ぜったい調べられる」
「別にハードウェアウォレットに仕込むなんて言ってない」
「マシンの方にってこと? スマホは持ち歩いてるし今家に近づいたらすぐ捕まっちゃうよ。それとも罠APでも仕掛ける? ぜったい繋がないと思うけど」
「そうじゃない。呉槭樹相手にできそうなことを考えたって仕方ない。向こうの立場になって、気をつけないであろうポイントを探すんだよ」
「た……たとえば?」
「たとえば——イケハヤ経済圏みらい平地域会議のオフィスとか、かな。たしかリアルオフィスがあったよな」
「う、うん。駅前にあるビルの、上のフロアがそうだよ。たしかに議長室あるし、お母さん週に何度か行ってるけど……あそこに仕事用のマシンなんてあるかなぁ? 自分のスマホで作業してる気がする」
「専用マシンはないかもな。でも——ディスプレイ拡張用のドックはあるんじゃないか?」
僕も使っているが、実際あれがないと卓上での作業がしにくい。ホログラフィックキーボードなどを使うならなおさら。
「……ある、と思う。入出力のデータも受け渡しされるはずだから、そこに仕掛けられれば……お母さんも見逃すかも。でも……どうやってそこまで行くの?」
クレが心配そうに言う。
「普通に部外者は入れないよ。あたしは身内だけど、今はアレだし……」
「そこは僕がなんとかする」
僕は言う。
「たぶん、なんとかなるよ」
◆ ◆ ◆
>>>第1章-11
コメントを残す