◇逃亡者
ベランダでコーヒーを待つ間に、アシスタントAIが勝手に点けたニュース番組の音声が耳に入ってくる。
U-22世界プログラミングコンテストでミズナシ・ヨシオ氏が三連覇を達成、サワント財団代表がマジュムダール氏へ交代、パートナーシップ・イン・ジ・エアー社CEOエイヴァ・ベック氏が自社トークン買いを発表、活動家カガ・スイサク氏が今度はキリバスで真水生成プラント設置事業へ……。
時々、嫌気が差す。メディアで報道されるような高評価者になるなんて無理なことはわかっているが、評価主義経済ではそれを求められているようで息が詰まった。
イケダハヤトの王国では、経済圏で行った各種活動の評価が、グラフ理論によってイケハヤ率の形で可視化される。初めは自身の概念化のための要素だったようだが、いつの間にか王国内での価値を表す指標になっていた。
王国の運営に関わるには、最低でも35パーセントのイケハヤ率が必要となる。僕を含め、ほとんどの人間には無縁の世界だ。
昔はよかったと言う年寄りの気持ちが、少しはわかる。
いや、そうじゃないな。と僕は内心苦笑した。
僕は単に、自分の評価が上がらないことが不満なだけだ。
ほんとうは僕だって————、
「……あ」
微かな駆動音が聞こえて顔を上げると、飲料配達サービスの細長いトライコプターが目の前に浮いていた。スマホをかざして決済を済ませると、ホルダーの紙コップに熱いコーヒーが注がれる。僕が受け取ったのを確認して、ドローンは巡回路に戻っていった。
手の紙コップから、白い湯気が五月の朝のひんやりした空気に立ち上る。
あんな非効率なサービスがなぜ流行っているのかはよくわからない。
スマホを見ると、結構な金額が残高から引かれていた。今は誰もが純粋な仮想通貨のほか、法定通貨や株式や債券や金や小麦など、様々な資産にペグされた無数のトークンをバスケット化して保有する。だから普段は為替など気にしないが、今回はせめて、割高なトークンが決済に使われたことを祈った。
コーヒーを一口すする。評判通り、味はそれなりにいい。
「んぅ……」
ふと鼻にかかったような声が聞こえ、反射的に目を向ける——僕は紙コップを取り落としそうになった。
ベランダの隅に、女の子がいた。
高校生くらいだろうか。顔を俯けて室外機の陰に座り込んでいる。肩に掛かるほどの黒髪が顔を隠していて人相はよくわからないが、少なくとも僕よりは年下に見えた。ライトグレーのブレザーにプリーツスカートという、どこかの制服っぽい格好のせいもあるかもしれない。
今までまったく気づかなかった自分にまず驚いた。
誰だコイツいつからいるんだ2階だぞ、ここ。
疑問を口からこぼれる前に、女の子が身じろぎした。どこか寒そうな仕草で目をこすり、顔を上げて大あくびをする。そして僕と目が合い、そのまま硬直した。
顔立ちはかわいらしいが、目にはエネルギーが詰まっていそうな少女だった。
少女は少し気まずそうに、僕へと笑いかける。
「お……おはよう? お兄さん」
ピンポーン、と。
僕がなにか言う前に、玄関のチャイムが鳴った。固まっているともう一度鳴る。ピンポーン。
いやどんなタイミングだよ。
「……どこの誰だか知らないけどちょっと待ってろ」
僕はそう言い放つと急いで玄関に向かう。一人暮らしのアパートをこんな朝に訪ねてくる客は、すぐに思い浮かばなかった。ドローンで運べないような物でも注文してたか……?と、思っているとまたチャイムが鳴った。ピンポーン。
なんなんだ一体。
「はいはー……い」
ドアを開けて目に入ったのは、3本足のボールだった。
>>>「第1章-4」
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