◇アノニマス
クロニックペイン。
あいつは俺をそう呼んだ。
ダークウェブで大物ぶる奴の鼻を明かしてやろうと、マシンに侵入を試みたあの夜。
まんまとハニーポットに誘い込まれ、信じられないような手際で逆ハックをかけられたあの時、あいつは、俺の情報を奪うでもなくメモ帳でこう問いかけてきた。
『CPってなんの略だ?』
CPは、いつも使っていた俺のハンドルネームだった。
自分の苗字、円道の頭文字を取っただけだったが、まさか正直に言うわけにもいかない。動揺しながらも、俺は用意していた答えを打ち返す。
『群衆恐怖症だよクソヤロウ』
『ウケる。クールじゃん』
そこからしばらく、俺はあいつとやり取りをした。
あいつは、どうも俺が思っていたような奴ではないようだった。ダークウェブでの尊大な態度は一種のロールプレイだったのだとすぐに気づいた。俺がやり取りしたあいつはずっと慎重で、思慮深く、フレンドリーながらも、決して腹の底は見せなかった。
俺はあいつと友人になった。
そしてある日。あいつは、俺にその計画を明かした。
『どうだ?』
すぐにできると思った。俺なら。
あいつは得体が知れなかったが、協力してやろうと思った。
あいつの目的は、まさに俺が求めていたものでもあったからだ。
『お前ならそう言ってくれると思った。だがこの先も群衆恐怖症では困る』
あいつは言った。
『お前は今からクロニックペインだ』
慢性痛。
後で調べてみると、それは20年以上前に存在した巨大ダークマーケット、『シルクロード』運営スタッフのハンドルネームだとわかった。帝王DPRに見限られ、殺害命令まで出された哀れな薬物中毒者。
あいつは今のDPRなのか? いや違うだろう。
“帝国”に関わる人間なのは間違いない。だがおそらくはもっと下の立場だ。そもそも、匿名主義者達の仮想国家『DPRC』の帝王など実在するかも疑わしい。
どうでもよかった。重要なのは、なにが得られるかだ。
それに、俺は慢性痛の名が存外気に入っていた。
円道も、群衆恐怖症も、慢性痛も、俺か彼女を指し示す言葉だったから。
俺は泡状ディスプレイを見つめる。
テストは終わりだ。計画はこれから始まる。
『インターネットを巻き戻す』
それがあいつの目的で。
俺の願いで。
おそらく彼女の希望だった。
>>>第2章-5
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